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先週の中、親戚の93歳のおばあさんが亡くなられた。
半年前から病床に着き、酸素吸入を受けていたそうで
医者はもって半年と言っていたそうだ。
久々の雲ひとつ無い日本晴れの日、告別式は行われた。
その式で彼女が生前、地域の歴史を綴った本に
記事を寄せていたものが紹介された。
それは昔、高梁川が双頭の龍だった頃の話…。
大正14年、荒ぶる龍のひとつの頭は、
埋められ廃河地と呼ばれる農地となった。
それは農地というより荒野で、
夏は砂煙が舞い草が木のように茂る過酷な土地だったようだ。
昭和10年頃その荒野に19世帯の第1期入植者がやってくる。
彼女はその中に居た。
水島の基盤を作った彼女たちの営みは
かなり過酷だった様子が書かれていた。
ご主人は笠岡の医者の家に生まれたが、
宮沢賢治の影響を受け農業を志す。
彼女は山陽町の農家に生まれ、ご主人と夢を共にする。
苦労の末、農業も軌道に乗りかけた頃、
太平洋戦争勃発、三菱の水島進出に伴い、
苦労の末、手に入れた農地をいとも簡単に追われることとなる。
そして、ご主人の戦死。
ご主人の「子どもに万全を期せよ」との遺言に
女手ひとつで3人の子どもたちを立派に育てたひとだった。
そんな人生も、彼女の手記がなければ私は知ることも無かっただろう。
その日、大勢のひ孫たちが彼女を見送った。
彼女たちが水島の荒野・理不尽な行政・戦争と戦ったのは
ほんの70年ほど前の話しだった。
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